最近の炎上を見ていると
「それは問題だったよね」と思う一方で
「ここまで叩き続ける話だった?」と
どこか引っかかる感覚を覚えた人も多いのではないでしょうか。
今回のフワちゃんの件も
何が起きたのかという事実自体は
すでに多くの記事で整理されています。
でも
読んでいてスッと腑に落ちたかと言われると
正直そうでもない。
そんな感覚を持った人は
あなただけではないはずです。
私自身
SNSの反応を追いながら
「問題の重さ」と「批判の熱量」が
うまく噛み合っていないように感じました。
誰かを擁護したいわけでも
逆に裁きたいわけでもない。
ただ
この空気はどう理解すればいいのか
そこが分からないまま
時間だけが過ぎているように見えるんです。
この記事では
誰が正しいか
誰が悪いか
そういう結論は出しません。
代わりに
なぜここまで批判が続いてしまうのか
その背景にある感情と構造を
一つずつ整理していきます。
もしあなたが
「モヤッとするけど言葉にできなかった」
そんな感覚を抱えているなら
その違和感を
一緒にほどいていければと思います。
「問題があった」だけでは説明しきれない違和感
今回の件について
多くの記事やコメントは
「何が問題だったのか」を中心に語っています。
発言内容
態度
過去の振る舞い。
事実関係を整理すること自体は
もちろん大切です。
ただ
それを読んだときに
あなたの中で
何かが残っていませんか?
「問題があったのは分かる」
「でもここまで長くここまで強く叩き続ける話だっただろうか」
この違和感は
判断力が鈍っているわけでも
感覚がズレているわけでもありません。
むしろ多くの人が
同じところで引っかかっている。
ポイントは
行為の是非ではなく
批判の量と温度です。
例えば
SNSでは関連投稿が数万件単位で流れ
数日経っても同じ話題が何度も蒸し返される。
ニュースとしては
一区切りついているはずなのに
感情だけが置き去りになっている。
そんな印象を受けた人も
少なくないはずです。
俺も正直
「もう論点そこじゃなくない?」と
画面を閉じたくなった瞬間がありました。
怒りというより
疲れに近い感覚。
これわかる人結構いると思うんですよね。
つまり
今起きているズレは
「問題があったかどうか」ではなく
その問題が どう消費され どう膨らみ続けているかにあります。
この構造を見ないまま
正しいか
間違っているか
だけで語ろうとすると
どうしても説明が足りなくなる。
だから違和感だけが残る。
次に整理したいのは
なぜ今 このタイミングで ここまで燃え広がったのか
という点です。
なぜ「今」この炎上がここまで広がったのか
今回の炎上を
過去の発言や態度だけで説明しようとすると
どうしても無理が出ます。
なぜなら
似たような言動をしていた人は
これまでにも何人もいたからです。
それでも
今回はここまで広がった。
この差を生んだのは
行為そのものより「今」というタイミングでした。
ここ数年SNSの空気は
明らかに変わっています。
- 不快に対する許容量が下がった
- 「流せばいい」が通用しにくくなった
- キャラやノリに対する目が厳しくなった
こうした変化は
特定の誰かが原因というより
積み重なった疲労に近い。
テレビやSNSで
同じテンション
同じ笑い方
同じキャラ付けが
長く消費され続けると
見る側の感情は少しずつ摩耗していきます。
俺自身
昔は気にならなかった表現に
「ん?」と引っかかる瞬間が
ここ数年で増えました。
たぶん
あなただけじゃない。
さらに
過去の言動が
簡単に掘り起こせる環境も
炎上を加速させます。
数年前の発言でも
今の価値観で切り取られると
まったく別の意味を持つ。
そこに文脈はあまり残らない。
結果として起きるのが
「悪いことをした」以上に
今この人を見ると なぜかしんどい
という感情です。
この段階まで来ると
批判は是正というより
空気の放出に近くなる。
だから
勢いが落ちにくい。
次に考えたいのは
なぜ同じ炎上でも
特定の人だけ ここまで叩かれやすくなるのか
という点です。
キャラはいつ「許されない側」に回るのか
炎上の強さは
やったことの重さだけで
決まるわけではありません。
ここで大きく影響するのが
その人がどんなキャラとして見られていたか
という点です。
いわゆる
「愛されキャラ」「いじられキャラ」は
一定期間
多少の失礼やズレを
笑いに変えてもらえる。
これは
本人の努力というより
周囲の期待によって
成立している免罪符のようなものです。
でも
この免罪符には
はっきりした有効期限があります。
- 同じテンションが続きすぎた
- 笑いより疲れが勝ち始めた
- 時代の空気とズレた
こうした条件が重なると
見る側の感情は
一気に反転する。
俺はこれ
「嫌いになった」というより
期待を下ろした瞬間に近いと思っています。
期待していた分
裏切られたという感覚が
怒りとして表に出る。
しかも
キャラが強い人ほど
イメージが先行します。
一つの言動が
その人全体を象徴するものとして
扱われやすい。
だから
説明や弁明が届きにくくなる。
ここで起きているのは
個人への評価というより
役割交代です。
「笑わせる側」から
「評価される側」へ
立場がひっくり返る。
その瞬間見る目は
一気に厳しくなる。
この段階に入ると
本人がどう感じているかより
見る側が
どう整理したいかが
優先され始めます。
だから
炎上は
感情の問題から
構造の問題へと
姿を変えていく。
次に見ていくのは
なぜこの状態になると
謝罪しても終わらなくなるのか
という点です。
なぜ謝罪しても批判が終わらなくなるのか
以前であれば
謝罪は
一区切りの合図でした。
反省の言葉があり
頭を下げ
一定期間が過ぎれば
話題は自然に薄れていく。
少なくとも
そういう「流れ」は
存在していたと思います。
でも
今は違う。
謝罪が出た瞬間に
終わるどころか
そこから第二ラウンドが始まる
そんな印象すらあります。
なぜか。
理由はシンプルで
謝罪が
「反省の表明」ではなく
評価対象になっているからです。
- 言葉選びは適切か
- 本心に見えるか
- 逃げていないか
- 被害者目線が足りないのでは
こうしたチェックが
一斉に走る。
そして
少しでも引っかかる点があると
「やっぱり分かっていない」
という判定が下される。
俺はこれ
正義感というより
納得したい欲求に近いと感じます。
怒りを手放すには
「十分に理解された」と
感じる必要がある。
でも
他人の内面を
完全に確認することは
できません。
結果として
どんな謝罪をしても
どこかに
不完全さが残る。
そこが
新しい批判の燃料になる。
さらに
SNSでは
謝罪そのものが
切り取られ
拡散され
再解釈されていく。
本人の意図とは別の文脈で
消費され続ける。
この段階になると
批判は
是正のためではなく
感情を置く場所として
機能し始めます。
だから
終わりが見えなくなる。
次に考えたいのは
こうした構造を見ている
私たち自身は どこに立っているのか
という点です。
この違和感は、他人事ではない
ここまで読んで
「芸能人だから起きた話でしょ」と
距離を置きたくなった人も
いるかもしれません。
でも
この構造は
決して特別な世界の話ではありません。
例えば
職場の雑談
友人同士のグループ
SNSの小さなコミュニティ。
誰かの一言が
「ちょっとズレている」と感じられた瞬間
空気が変わる。
その違和感が
共有され
増幅されると
本人が気づかないうちに
立場が入れ替わる。
俺も
過去に
「別に悪気はなかったんだけどな」と
思いながら
距離を置かれた人を
何人も見てきました。
はっきり責められたわけでもない。
ただ
空気が変わった。
それだけ。
このとき起きているのは
善悪の判断ではなく
感情の調整です。
集団の中で
居心地を保つために
違和感の源を
外に出す。
その役割を
誰かが背負わされる。
だから
叩く側と
叩かれる側を
完全に分けることは
できません。
見る側だった人が
次の瞬間
見られる側に
回ることもある。
今回の炎上を見て
モヤッとしたあなたは
冷たいわけでも
甘いわけでもない。
むしろ
この構造に
無意識で気づいている。
「自分も
同じことをしていないだろうか」
「同じ目に遭ったら
どう感じるだろうか」
そんな問いが浮かんだなら
それは
感覚が鈍っていない証拠です。
この違和感は
誰かを守るためのものではなく
自分の立ち位置を 確認するためのサイン
なのかもしれません。
今回の炎上を
「誰が悪かったのか」という視点だけで見ると
どうしても
スッとしない感覚が残ります。
それは
あなたの判断が甘いからでも
世間とズレているからでもありません。
問題があったことと
ここまで批判が続くこと。
この二つの間には
感情と構造のズレがありました。
タイミング
期待
キャラ
正義の置き場。
それらが重なった結果
批判は
是正ではなく
空気の処理として
膨らんでいった。
この記事で整理してきたのは
答えではありません。
「こう考えると
少し理解できるかもしれない」
という
見取り図です。
フワちゃん個人の話に見えて
実は
今のSNS
今の人間関係
今の空気全体が
映し出されていた。
そう捉えると
あの違和感にも
居場所ができる。
叩きすぎだと感じた人も
叩く側の気持ちが
分からなくもない人も
どちらも
間違っていない。
ただ
同じ構造の中に
立っているだけです。
もし次に
似たような炎上を見たとき
少しだけ
距離を取って眺められたなら
それだけで
この整理は
意味を持ったと言えるでしょう。
違和感を感じたあなたは
冷めているのではなく
考えようとしている。
その感覚は
手放さなくていいと思います。
